トップページ | ドイツ皇后ヴィクトリア(2) »

ドイツ皇后ヴィクトリア(1)

Victoria_princess_royalドイツ皇后ヴィクトリアは、1840年11月21日、英国女王ヴィクトリアとザクセン・コーブルク・ゴータ公子アルバートとの間に第一子、長女として産まれた。
母女王の在位3年目のことであり、両親が結婚してから約9ヵ月後のことだった。
洗礼名はヴィクトリア・アデレード・メアリー・ルイーズ。家族からはヴィッキーと呼ばれた。生後一年にしてプリンセス・ロイヤルの称号を授与されている。プリンセス・ロイヤルは君主の長女に与えられる称号だが、君主の長女であれば必ず与えられるとは限らない。この称号は終身のもので、なおかつ同時代に唯一人だけが名乗ることが出来る。
先代のプリンセス・ロイヤルであったシャーロット王女(ジョージ3世長女)はヴィッキーが産まれる13年前に逝去しているから、ヴィッキーがプリンセス・ロイヤルを名乗る条件は整ってはいたのだが、彼女以前、そして彼女を除いて彼女以後は、おおよそ成人後にこの称号は与えられている。
現在のプリンセス・ロイヤルであるアン王女(エリザベス2世長女)にその称号が授与されたのは彼女が37歳になった年だった。
生後1年かそこらでこの称号を与えられるのは極めて異例だった。
ひとつには、彼女に弟が生まれるまでは王位継承順位第一位に位置しているという事実に相応しい権威づけが必要だからと考えられたからだろう。ヴィッキーが生まれるまで、その位置にいたのは、ヴィクトリア女王の父のすぐ下の弟のカンバーラント公アーネスト・オーガスタスで、この人物の評判はすこぶる悪かった。
ドイツの小国ハノーヴァー王国と英国は同君連合の関係にあったが、ヴィクトリアの即位に際して、王室が分かれた。ハノーヴァー王国は女子・女系継承を認めていなかったので、ハノーヴァーの王位はヴィクトリアにではなく、カンバーラント公によって継承されていた。
カンバーラント公アーネスト・オーガスタス、すなわちハノーヴァー王エルンスト・アウグストゥスは保守反動的な人物で、ゲッティンゲン大学からグリム兄弟を含む自由主義的な七人の教授陣を追放するという、七教授追放事件を引き起こしている。
英国民にとって、そのような人物が英国王位を継承するかもしれないという可能性は恐怖以外の何物でもなく、女王自身を除けば、ただひとり、カンバーラント公と英国王位の間に立ちふさがる存在であったヴィッキーに、ハノーヴァーとの厳然とした決別を示すためにも特別な権威づけをすることが必要とされていた。
ハノーヴァーとの同君連合の解消はドイツ情勢に英国がむやみに巻き込まれることを予防し、また、「ドイツ的圧政」からの解放の象徴として、ヴィッキーの誕生には特別な意味があった。彼女こそは「自由なるイングランドの娘」そのものであった。
そうした英国の自由を担保する赤ん坊としての役割は、間をおかず、女王夫妻の長男アルバート・エドワード(バーティ)王子が誕生したことによって速やかに終焉を迎えたが、何と言っても女王夫妻にとっては初めての子であり、いまだ若かった彼らにとっては、愛情と意欲の対象であった。
特にアルバート公子の熱心な教育は、ヴィッキーをして、ただ長女であるから総領の役目を果たす立場に置くというだけでなく、知性において他の子たちから隔絶した地位に据えたのだった。

その誕生によって、英国をドイツから隔離したヴィッキーだったが、彼女自身の結婚によって、英国とドイツを結びつけることになった。
英国王室とプロイセン王室との縁は軍人王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の妃ゾフィア・ドロテアまで遡る。彼女はハノーヴァー選帝侯ゲオルグ・ルートヴィヒの娘であるが、父選帝侯が後に英国王となったことから(ハノーヴァー王朝初代ジョージ1世)、英国王女の身分ともなり、英国とプロイセンの密接な関係をもたらす礎となった。
大王と呼ばれたプロイセン王フリードリヒ2世は、英国王ジョージ1世の外孫になる。父王とはそりがあわなかった彼は若い時は、祖父の国、英国へ亡命を試みたこともある。即位後、ロシア、フランス、オーストリアといった欧州の列強をむこうにまわして戦った七年戦争では、唯一、英国だけがプロイセン側に付き、プロイセン国家の崩壊を防いだ。
そうした建国期の親密な関係にも関わらず、軍国プロイセンと自由主義国家英国とでは、しょせん国家のグランドデザインが異なっていた。
プリンセス・ロイヤルの輿入れ先として、プロイセン王室はもはや必ずしも理想的な環境とは言えなかっただろう。
プロイセン王ヴィルヘルム1世は保守反動的な人物だったが、その王位継承者、皇太子フリードリヒは必ずしもそうではなかった。若いプリンスは、プリンセス・ロイヤルがまだ少女だった頃、初めてパリで会っている。以後、両者の間には文通があり、ふたりの結婚は基本的には恋愛によるものだった。
ヴィクトリアはこの聡明な長女を国内に置いておきたい欲求もあったようで、プロイセンが相手として不足というわけではないにせよ、長女のこの結婚に積極的というわけではなかった。
アルバート公子はもともとドイツ人であり、自由主義的な性格を持っていたので、英国と比べれば極めて保守的な祖国ドイツにしっかりとした自由主義思想を根付かせたいという彼なりの愛国心があり、自由主義的なプリンス、フリードリヒのもとに、英国の娘を送り込むことは、その目的にかなうことだと思っていた。
しかしそれだけにプロイセンの実権をにぎるビスマルクら保守派にとっては、「英国の間諜」となった王太子夫妻、特にヴィッキーを危険視、あるいは敵視せざるを得なくなるのであった。

(2)へ続く。

|

トップページ | ドイツ皇后ヴィクトリア(2) »

victoria」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ドイツ皇后ヴィクトリア(1):

トップページ | ドイツ皇后ヴィクトリア(2) »